2019年03月04日号
業務に習熟することで業務のスピードは一定程度早くなる。そして単純な日常的なルーティンワークであればあるほど経年による習熟度が影響してくるだろう。しかし、この種のルーティンワークは往々にして「誰にでもできる」ということでもある。「誰にでもできる」とは代替が効くということであり、「自分がやらなければならない仕事」ということにはならない。つまりコモディティ化した作業に過ぎないということだ。
今日の時代はコモディティ化した作業の繰り返しに満足しているならば、早晩それはAIが行う領域になることは確かだ。ところが、こうした「作業」をあたかも“自分の仕事である”という認識に留まっている者が非常に多い。これは、自らが行う業務に対して成果を基準に測ることよりも「時間カウントされる作業」で測るという考えに基づくものだ。
作業のスピードをいくら高めたとしても人間には限界がある。つまり労働法制で決められている就労時間内にできる仕事は知れたことだ。残業削減が叫ばれて久しく「働き方改革」が喧伝されているが、自分や職場の労働時間の長短を意識する前提として、先ず自分の行っている日常業務が仕事であるのか、作業であるのかの切り分けを行う必要がある。
自分の日常業務を作業と仕事という視点で考えるということは、一人ひとりの「働きの質」を問い直すということでもある。特に新入社員の場合は、いろいろな業務を憶えなければならないため、どうしても一つ一つの業務内容を作業であるかのように意識してしまう傾向に陥りがちだ。職場の先輩や上司からも「早く業務を憶えろ」という暗黙のプレッシャーがかかることになるため当然でもある。
確かに早く業務を憶えることは必要である。しかし、「その業務を行う意味は何か」「なぜ、この業務を行う必要があるのか」という業務に対する意味と意義を自ら問い続けていく癖をつけていかなければならない。さもなければ自分が行っている業務の習熟度に比例して、自らの業務は知らず知らずのうちにルーティン化することになる。
自分の行う業務を作業と位置づけて時間短縮を図るのは、さほど難しいことではない。常に“自分はこの業務を行うためにどれくらいの時間をかけているのか”と意識し、その時間をできるだけ短くする工夫をすることはできる。しかし、半面で早くなればなるほど業務に慣れて、つい漫然となり同じ時間をかけて同じやり方でやる癖がついてしまうものである。
慣れや癖はルーティン化の温床となり、何年たっても同一業務の繰り返しがあたかも自分の仕事であると認識するようになる。これでは自らがAIに代替される道を掃き清めることになる。もちろん新人は早く業務を憶える努力をしなければならない。これを怠るならば本来の仕事を行うスタートラインにすら立てないということだ。しかし、新人の段階から常に自分の行う業務が周囲に対してどのような影響を与え、周囲や社会とどのようなつながりがあるのかを意識していなければ、自分自身の「働きの質」を高めることはできない。
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