2011年04月04日号
人間は本来動物や機械のように外からの圧力(要因)によって動かされるものではない。外から律せられて動かされるのではなく、自ら律して意思で行動することができる。
従って、自らの行動によって発生した問題に対して、その行動の「責任」は自分自身に帰するものだ。
「○○さんにいわれたから」「皆がそうやっているから」あるいは、「上司にいわれたのでやった」「会社の方針だからやった」などと口にするひとは、「自律した行動」を取っていないために、会社組織での働きに限らず、すべからく「ぶら下がり意識」=他律的行動を取っているということだ。この他律的行動は、他者への「依存」と「責任転嫁」としてあらわれてくる。
そして、自らを律して行動していない者の特長は、
・国は何もしてくれない
・会社は何もしてくれない
・原因は行政の無策にある
・会社の危機は経営者の責任だ
と、いう具合に「依存」と「責任転嫁」を行うことだ。
もちろん、失政や失策を批判してその改善を促していくことは、否定されるべきものではなく当然のことだ。しかし、批判は為にするものではない。
「批判」とは、全否定でも全肯定でもなく、自らの「責任ある行動」=自律的行動を取っている者同士が行うから生産的になる。他者への「依存」と「責任転嫁」の意識から抜け出ない者が行う「批判」は、単なる「愚痴」にしか過ぎない。
とりわけ、会社組織においては自分自身が役割を果たしているかという問題だ。往々にして自らを棚上げして、「会社が…」という発言が頻繁に交される。こうした発言の根底には、自分は「忠実な実行者に過ぎない」という発想が潜んでいる。さらにいえば、いつでも「会社が…○○してくれない」という思いは、没主体的にしか会社組織に関わってこなかった、
つまり「ぶら下がってきた」という証明をしているようなものである。これでは、いつまでたっても自律した働きをしていくことはではない。こうした発想では自らの働きに自信を持つことなく、いつまでも会社に「働かされている」という意識に留まっていることになる。
会社組織での働きとは、唯我独尊で自分一人が行うものではない。意見の異なる者であったとしても共通の目的に向かって協働して進むものだ。
しかし、誤解してはならないのは「協働」するということは、なんでもかんでも「みんなと一緒」という意味ではないということだ。
一人ひとり自律した働きがなければ、決して「協働」にはならない。自らに自律した働きの意識を持たない者は、会社組織にあっては単なる「お荷物」的な存在になってしまう。
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