2020年07月27日号
これまで幾度となく強調してきたが、組織への「依存」と物事への「責任転嫁」は表裏の関係ともいえる。単純化していえば組織への「依存意識」が強い者は、その反動として組織への「責任転嫁」を行うものだ。当然のことながらこの関係は企業組織にも当てはまる。巷間、何かといえば「責任をとる」あるいは「責任をとれ」という言葉が横行している。時には恣意的にこの言葉を用いて、ことさら他者を落とし込める傾向もある。SNS上では見ず知らずの者による誹謗中傷としても用いられている。
しかし、仕事に関していえば仕事で発生した事象に対して、担当者がその責任をとることなどできない。担当者ができるのは今ある仕事に対して「責任をもって取り組む」ことだけである。責任とは自分の行為・行動を自分で自由に選択して、その結果として起ったこと全てに法的ないし道徳的な応答をすることである。日常の仕事においてもこの覚悟が問われるということだ。
確かに自分自身が行う自由な行為・選択に伴い、それに応じた結果に対する責任は自分自身にある。従って、「責任をもって仕事に取り組む」とは、単純な自業自得と同列して語られる「自己責任論」ではない。当然にもひとはそれぞれ、自らの「働き方」について自由である。しかし、その行為と結果について責任の所在は、本人であって企業組織にあるというわけではない。
こうした意識を持ち続けなければ、事あるごとに「会社が○○だから…」「上司の命令であったから…」という具合に責任転嫁に走ってしまうものだ。とりわけ働きを通した自らの「成長」についての責任は、全て自分にあることを忘れてはならない。企業は個々人の成長を促す施策を講じることはできる。しかし、個々人の成長を保証することなどできない。仕事や働き方を通した成長のありかたについて、常に深遠な主張し続けてきたのはドラッカーだった。
ドラッカーは働く者の成長の責任は、常に自分自身が負うものであり、全ては責任から始まるということを強調して、次のような言葉を残している。「成功の鍵は責任である。自らに責任をもたせることである。あらゆることがそこから始まる。大事なものは、地位ではなく責任である。責任ある存在になるということは、真剣に仕事に取り組むということであり、仕事にふさわしく成長する必要を認識することである」と。
自らの成長に責任を持たず、責任転嫁に走る者は、おのずと自らの成長と止めてしまっているということだ。自らの成長に関する責任と同時に、仕事上での失敗に対しての「責任の所在」についても逃げてはならない。仕事での失敗は誰であれ、どんなときであれ必ずつきまとっている。
仕事には常に「リスクがともなうものである」ということだ。このリスクを回避する手段は、逆説的ながら一つしかない。それは、「何もしない」ということだ。つまり、リスクを恐れるということは、仕事において挑戦もせず、ただ他者から指図されて、いわれた事をいわれた通りにしか行わないという姿勢である。
はたしてこれが仕事を行っていることになるのだろうか。仮にこうした行動が仕事であると思っているのであれば、あまりに虚しいことだ。失敗したのであれば、その原因は何か、どこに問題があったのかということについて、目を背けずに分析してみるという姿勢が、責任を転嫁しないということだ。責任転嫁からは、自己の成長もないし、失敗から学びとれる新たな成功の芽も摘み取ることになる。
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