2011年03月07日号
「リーダーシップ論」が氾濫している。何かといえば首相のリーダーシップの欠如が指弾されたりもする。日本の戦国時代の武将や戦前の陸海軍の将官を引き合いに出して論じたり、最近では上司にしたい俳優やタレントのランキングなども行われている。
ところで「リーダーシップを発揮する」という意味を単純に的確な指示や命令を出し、部下を思いのまま動かすこと、あるいは先頭に立って周りをグイグイと引っ張ることであると理解しているひとがいる。しかし、これらはリーダーシップの一つの機能側面に過ぎない。
「リーダーシップとは他者へ自らの影響力を与えることである」と考えた場合には、リーダーシップの基準は、単純にリーダーシップを発揮する個人のパワーに帰属するものではないということだ。リーダーシップがあるかないかを決定するのは、周囲がそのひとから影響力を受けているか否かの認識に大きく依存することになる。
ある一人の上司が常に先頭に立って旗を振り、部下に指示や命令を出し、部下がこの上司に従って行動しているとする。しかし、部下の側が「上司の命令だから仕方がない」との思いで従っているようでは、この上司は部下に影響力を行使していることにはならない。
つまり、リーダーシップを発揮しているのではなく、職務上の権限でだけ、部下を従わせているに過ぎないということだ。部下の側もひょっとすると「仕方なく」従っているかもしれない。こうした部下の行動は「面従腹背」ということになる。
最近盛んに問題になっている「上司によるパワーハラスメント」の発生原因の一つには、上司の側がリーダーシップを発揮するという意味を履き違えていることにも一つの原因がある。それは上司として部下に上手く影響力を与えることができないというジレンマを、物理的命令や強制することで行使してしまうという錯覚だ。上司の側の能力不足を外見上の「権威」で動かそうとする悲喜劇という面も否めないということだ。
「リーダーシップ」で最も大切な視点は、周りの人びと(他者)の認識や感情にどのように働きかけていくかということだ。そのために、いま自分の周りの人びとがどのような認識をしているか、どのような気持ちでいるか、といった状況を正しく理解する必要がある。
要は周囲の認識や感情に対して敏感であろうとする行動をとっていくことが、リーダーには不可欠ということだ。同時に自分自身のいまの状況・状態をメタ認知(客観的な自分理解)する能力を不断に磨く姿勢を堅持するということだ。
ただし、周囲から信頼を得ることを自己の目的としてはならない。あくまで、自分が真摯に行動することに対して、周囲は信頼感を持ってくれるようになるものだ。この信頼感なくしてリーダーシップはない。
一覧へ |