2022年06月27日号
最近でこそ減少傾向にあると聞くが一昔前まで新卒採用の会社説明会では、学生から「会社の教育制度について聞かせてほしい」というのが定番の質問事項であった。実際に「教育制度の充実」を会社選択の基準とする学生も多かった。さらには既存従業員の中にも「自社には教育制度がない…」などと不満を漏らす声も多く聞かれた。
確かに企業にとって従業員に対する教育は必須のことである。企業に限らず教育は社会全体が取り組むべき課題である。古臭い表現ながら正に「教育は国家百年の大計」であることに間違いはないだろう。しかし、企業での学びは単に提供されるものではなく、あくまでも自らが主導的に「獲得」するものでもある。いくら企業が立派な教育制度を設けたとしても、一人ひとりの従業員の側に「学び」に対する意識が欠如しているならば制度も形骸化する。
一般論だが従業員の側は企業が施す教育に対して往々にして一律な公平性を期待する。確かに企業が向かうべき方向性や理念、ビジョンの共有化を図るため新入社員に対し一律的に教育の「場」を設定するは、大きな意味があるだろう。しかし、いつまでたっても同一年次や同一職位の者に一律に教育の「場」を設定する意味は崩れてきている。現実問題として新卒一括採用が解体する過程では、企業内研修の実施スタイルも変更させていく必要がある。
研修について直截にいえば全従業員の職位に応じて一律に研修を施すのではなく、各階層で選別して実施する方向にシフトさせていく必要がある。つまり、企業は内部・外部研修を問わず、提供する教育の「場」を提供する従業員を峻別していく必要があるということだ。企業が施す教育はあくまでも投資である。投資である以上は効果に対して厳密になる必要がある。
企業組織で働く者が常に意識しなければならないことがある。それは自分の成長に責任を持つのは、あくまでも自分自身であって、決して組織ではないということだ。「会社に教育制度がない」であるとか「教育の機会が少ない」などと嘆く前に、自分の成長に責任を持つのは自分自身であり、「学びの機会は与えられるものではなく、日常業務の中に転がっている」という発想で臨む必要がある。企業組織での「学びの機会」とは、自分の上司や経営陣がさまざまな局面において、決定をしていく場面での立場・観点・方法を自分自身で観察していくことでもある。
こうした「学びの機会」を自ら探しだしていくことで、自らの仕事の守備範囲を広げより大きな仕事の全体像を把握することができる。とりわけ、自分よりも一段階上の職位の者がさまざまな判断を下していく場面を観察することで、仕事への「責任感」を見習うことができる。同時に「なぜそのような判断を下したのか」「自分であればどのように判断するか」と思いを巡らすことが、現状よりも高い視座を獲得することにつながる。もちろん自らの成長に対する「反面教師」とすることもできる。
今の自分とは異なる高い視座で物事を見る目を鍛えることは、自分が日常的に行う業務の武器となる。つまり伺いを立てなければ「動けない」という姿勢からの脱却である。既に決まった方針の下での業務は、実行レベルにおいて基本的にルーチンワークに転化するものである。このレベルでいちいち自分がやるべきことに許可を求めるような働き方は愚の骨頂であり、自己の責任回避という保身に過ぎない。
自分の成長にも仕事の結果に対しても自分自身が責任を持つためには、決して他人に依存することはできない。成長も仕事も問われるのは「結果にたいする責任」である。組織への「ぶら下がり」に終始しているならば、経過だけを気にしてしまうことになる。しかし、求められるのは結果に対する責任を全うして経過を振り返るという姿勢だ。企業組織で働くということは、地位に連綿とこだわることではなく、責任ある存在になるということである。
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