2011年05月09日号
何事においても私心からではなく、客観的で冷徹な判断を下していくため、「受身に現状肯定」するのではなく、「現状」を疑って見るという姿勢を堅持することだ。今回の東日本大震災での「風評被害」でも同じことがいえる。さしたる根拠もない情報に自ら考えることもなく付和雷同してしまうことは、「皆と同調している」という意味では楽なことではあるが、自らの「思考停止」という意味では、実に哀れなことであり、結果的に汚点を残すことにもなる。
私心からではなく客観的で冷徹な判断を下していくため、「受身に現状肯定」するのではなく、「現状」を疑ってみるという姿勢を堅持することも必要だ。
会社組織に当てはめてかんがえてみるならば、経営者の判断とは時に哲学的であり、高度な抽象論での理念から導き出されるものだ。そのため前後の整合性や辻褄が合わないこともある。それをそのまま受け入れていては自分自身の「学び」にはつながらない。こうした行為は正しく盲従となってしまう。そこで常に心がけなければならないのは、複眼的な思考を堅持するということだ。自社の上司や先輩に接する時も同じことがいえる。
盲従することは楽ではあるが、決して自分のためにも会社のためにもならないということだ。自らの仕事を展開していく上で、さまざまな環境の変化に照らし合わせて、自社の取るべき方向について、現状に満足せず、常に疑いの目を持つことを忘れてはならない。一言でいえば「会社の方向は、果たしてこれで良いのか…」と常に問いかけていく姿勢が必要ということだ。
複眼的に考えるとは、あるひとつの事柄を両面から見るということだ。あるいは別の角度から見てみるということだ。少なくとも一面的な情報だけを鵜呑みにしないことである。ただし、それにはきちんとした情報収集が必要で、確かな情報をキャッチする力がないと両面からの思考も単に「ああでもない」「こうでもない」という錯綜に終わってしまう。
そのためには、自分自身が常に会社の最前線であるという自覚をもってアンテナを張り巡らせ、業種・業態や世代を超えた仕事を通したネットワークづくりを心がけることだ。自社にとどまらない外部から刺激や情報を受けることで、自分を成長させ続けることができる。そして受けた刺激や情報は自分の内に秘めず、自社にフィードバックしてこそ意味がある。それは自ら収集した情報を社内に発信することで、精度や意味がより精査されていくからだ。
さて、功なり財をなした伝説的な経営者に無批判に心酔しているひとがいる。こうした経営者に「学ぶ」あるいは「見習う」ことは、自分自身の立ち位置を確認していく上で意味があることだ。しかし、盲目的に崇め奉ってしまっていては「学び」にはならない。たとえ世間一般からカリスマ的な支持を得ている人物でも、冷静な目でその人物の取った行為行動がどのような状況でなされたか等を見ていくことが肝心だ。
どんなに社会的評価が高く万能に見える経営者でも、所詮は同じ人間でありスーパーマンではない。こうした経営者から「学びとるべき」内容は、さまざまな状況変化の中で、「何を考え」「どのように行動」をしたか、そしてどのような立場・観点を貫いてきたかということを批判的に摂取することだ。そして、こうしたことを通して自分自身の判断基準を持っていくことだ。
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