2013年03月25日号
いまだに上司・部下の関係について「言葉や文字を使わなくとも互いに気持ちが通じ合わなければ…」と錯覚を持っている人がいる。これは、ハッキリといって幻想に過ぎない。
禅宗の世界では「言葉や文字では表せない奥深い仏教の真髄を、師から弟子の心へ伝える」ことを指して“以心伝心”というが、これはあくまで修業を積んだ上で達することができるひとつの境地なのかもしれない。
往々にして、長い間同じ職場で仕事をしていると「みなまで言わなくとも…わかってくれるだろう」との気持ちになる。特に会社組織で上席の立場にある者は、部下や同じ部署の人たちに対して、こうした「わかっているはず」という願望を持つものだ。また、職場に配属されてくる新人に向かってこれを期待する傾向がある。
同様に「一を知って十を知れ」などと昔の上司に叩き込まれた上席者が、部下に同様のことを求める人もいる。これとても今では、上席者による願望に過ぎないのではないか。もちろん、一つ一つの事柄について説明されなくとも、指示された事柄について、常に全体を推し量って仕事を進めていくことは理想である。
ところが、現実的にはこの種の志向性を今日のビジネスシーンでことさら求めてしまっては間違いなく裏切られる。同時に、こうした思いはハッキリといって上席者の側の甘えに過ぎない。
上席者に限らずこの「甘え」は、同一組織やこなれた取引先との間で発生する。言葉を換えれば「馴れ合い」にも通じるものだ。
「わかってくれるだろう…」は通用しないということだ。では、「わからない側」に非があり、能力が無い証拠であると割り切ることができるだろうか。事細かく指示をされなければ動けないというのは、全体を推し量って仕事を進められないという意味で“態度能力”に欠けているといわなければならない。もちろん「指示待ち人間」は、論外としても多くはこうした“態度能力”が形成される機会を持ってこなかったともいえる。
例えば新人社員の中にも確かに最初から“態度能力”が形成されている者もいる。しかし、こうした者たちを採用して行くためには、会社組織全体の底上げがなければ、仮に採用したとしてもすぐに逃げていく結果となる。
そこで、既存社員も含めて“態度能力”は「会社組織で育成していくしかない」と覚悟を決めるのが、現実ではないだろうか。この育成を厭うか厭わないかで会社組織の帰趨が決まってしまうかもしれない。
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